2011年5月20日金曜日

WANT YOUR VOICE !!!

松本です。
今回、たくさんの人々の声を集めてZINEにしようと思い立ち募集をすることにしました。
一言でも長文でも、匿名でも絵や詩でも構いません。あなたの声をそのままZINEにして
被災地や都内、各地で配布します。文章ではなくて話したい方という方もインタビューという
形でテープレコーダーに記録させていただきます。少しでも興味ある方は下記のアドレスへお問い
合わせください。既に用意されたVOICEについては直接メールで送っていただくか、下記の
住所へ送っていただくか可能であれば取りに行かせてもらいます。声が集まり次第、随時
発行していく予定です。

※現在、被災地へ行き現地の人の声も集める活動もしています。

Mail:pilvetpampi@yahoo.co.jp
〒160-0032 東京都中野区鷺宮4-34-1 n.a.m

3月11日の震災から約二ヶ月、時間の経過と共に被災地の状況、私たち含め人々の心境も
徐々に変化してきていると思います。今月に入り南三陸町、いわき市へと足を運び現地の
人々の様子を見てまず感じたのは、とにかく話をしたがっているということ。とくに実際に
原発や津波の被害に遭い、避難を余儀なくされている方々からはそういった強い感情が伝わ
ってきました。私たちが東京から来たと知ると、絶え間なく今の心境や実際の体験などを次
々と話してくれました。15日、福島県いわき市で行われた反原発デモでは今も避難所生活
をしているという方も見受けられました。

デモ出発前に公園広場出会った介助の仕事をしているという方から聞いたのは
「何でもなかった人が震災を機に認知症になり歩けなくなった。皆たくさんストレスを抱えて
いる。今大事な事は皆で集まて声を出し話し合うこと。」という事でした。
そして「(いわきナンバーで拒否されたという経験から)今東京の方々にお願いしたいのはいわ
きの人を温かく迎えてほしい。そして日本全国から集まって来てくれるのは本当に嬉しい。」
ということでした。

まだ避難所で生活をしている水道局で働いていたという方は、「避難しているばかりではダメだ
と思って、自分にも何かできないかという気持ちでデモに参加した。テレビではそこまで細かく
報道していないけど、自分の周りは家族が崩壊してきている。一番近しい知人の奥さんと孫二人
が津波で消えてった。百姓さんの井戸の水を飲んでいるけど飲む時はいつも不安。筍も栽培して
たけど食べられない。原発さえなければという気持ちがずっとあるし、昔から地震がある度原発
のことを心配してきた。」
とデモ中もずっと私に伝えてきました。

そして某大手スーパーに差し掛かった時に話してくれた、「ここは地震の後、即物が無くなって
運送業者もは運ぶのを嫌がって一番必要な時に機能していなかった。でも地元の小さなスーパー
はずっとやり続けてたよ。やっぱりこんな時一番強いのは個人個人の気持ちなんだよ。」という
言葉が印象的で、私たちも支援活動をする中で常に感じていた事でした。

広場に来ていた地元の高校生もいて、ノートに想いを書いてくれました。中には「差別しないで
ください」という言葉もありました。

震災後時間の経過と共に差が出てくる個々の意識。そこで今後、必要になってくるのは被災地と
日本全国の人々の密接したネットワークだと思います。分け隔てなく、表現をし合う場。私たち
は今までも音楽を通して、D.I.Yやそういった要素を重要視してきたと思います。そこで今自分
にできることは何かと考えた時にZINEとして、人々を結ぶ足掛かりを作るという事であり、それ
は今私たちの意識を再確認する目的でもあります。

そしてこれは私の個人的な見方なのですが。それぞれの現実と向かい合い、思考を止めずに表現し
続けること。少なくとも私がPUNKというものに惹かれたのはその要素があったからで、苦難を伴う
分だけ人々の心を掴んできた、立ち向かっている人々の言葉は人の人生を変える力がある。と信じ
ています。だからこうして私たちは現在受け継がれてきた音楽を知ることができるのではないでし
ょうか。そして今この日本の現状の上に、そのメンタルなしに勢力を保つことは難しいと思います
。行動を起こさなければ、賛否両論も生まれません。誰かの脳みそを動かす事もない。まずは言葉
に出し意思表示する事が必要なのではないでしょうか。

2011年5月14日土曜日

5.11 HRP第一次声明

未曾有の惨禍をもたらしたあの震災から2ヶ月が経過した。

我々はこの間、5度の遠征部隊を組織し、石巻、南三陸、仙台、南相馬、いわき、楢葉町等に向かい、現地の被害状況をリアルタイムで伝えると共に、被災した住民に対して食料、生活必需品、おもちゃや本等の娯楽物資を配給することによってささやかながらサポートをしてきた。

これまで現地に赴いた隊員のレポートや写真等の報告によって明らかな通り、既成のメディアで伝えられる以上に、どの地域に於いても被害は甚大たるものである。もはやかってこの場に何があったのかすら想像することが困難な、筆舌に尽くしがたい有様であった。膨大な廃棄物と化してしまった家屋の残骸に混じり、不釣り合いなコントラストを生み出している衣料品や鍋といった、生々しい生活の痕跡。そう、確かに、そこにはつい最近まで人々の営みがあり、命が存在していたのだ。しかしながら、360度、辺り一面どこをみても散乱するする瓦礫のみといった殺伐とした光景と、腐敗しかかった海産物と下水の混ざったような臭気漂う廃墟の中では、それらの「痕跡」は命の営みを証明するには説得力に乏しいと言わざるを得ない・・・。

我々は、難を逃れ、何とか避難生活を続けている被災住民のもとへ一刻も早く物資を届けんと、各地域において避難所を渡り歩いてきた。
まだ津波の跡も生々しい、散乱した瓦礫に囲まれた施設で、救いの手を待ち、幼子を抱え避難生活を続ける親子。
1階部分が完全に破壊されながらも、かろうじて残った自宅2階に戻り、復旧を信じ、水もない生活を続ける家族。
流されてしまった我が家を見下ろす高台にある、通学先の学校で避難生活を送る生徒児童。
居住地域から遠く離れた温泉宿の避難所で、日常に戻れるかどうかの不安を抱えたまま、観光宿で避難生活を強いられている家族。
福島第一原発20km周辺ながらも、電気が復旧したということで帰宅してしまった家族。

人々は甚大な被害を被りながらも、かつてあった当たり前の日常を取り戻さんと、困窮しながらも、皆したたかに何とかそれぞれの暮らしを保っていた。

我々が最初に現地を訪れたのは震災後10日程たってからであるが、その時点で既にどこの受け入れ行政機関も「物資については既に在庫があり間に合っている」との説明であった。ならば、より困窮している在宅避難者を独自に探して、支援したいとの我々の申し出に対して、行政機関の回答は想像を絶するものであった。
「そのようなことはしないでもらいたい」
その根拠は「平等の原則に反する」というものであった。
まさにそういった説明を受けているさなか、週二回の配給日を待てずに、配給場所である社会福祉協議会に車で乗り付けてきた被災住民がやってきた。
つい最近、遠く離れた避難所から自宅避難に切り替えたため、配給のノウハウを把握しておらず、今日の夜に食べるものすらないとのことだった。
乗り付けた軽トラックは車外はおろか、中まで泥だらけだ。「おとうさん、ずいぶんと波にやられて汚れちゃったね。」
私からの問いかけに、初老の被災男性は「これは作業用の車だよ。いつあれ(原発)がドカンとくるかわがんねから、逃げるときの為にいい車は残してあんだ」
ハンドルを握る手すら、乾いた泥にまみれていた。
その姿からこんな窮状下にあっても、若いもんに無用な心配はかけまいと、精一杯気を使ってくれているのが、容易に想像できた。
「平等の原則」とやらはこんな姿のものですら、門前払いとしてしまうのか!
施設の外で、我々はカップ麺1ダースを男性に手渡した。
「これで近所のもんにも分けてやることができる」
さっきまで気を使って強がっていた男性は、我々に手を合わせた後、住居へと走り去っていった。

その時点で我々の腹は決まった。
今後は一切、行政機関に頼らず、実際の被災住民のニーズに合った支援を独自に展開していくという方針を明確に打ち出すこととなった。

その後、我々はより困窮した地域へ乗り込む為、避難指定地域である、福島第一原発20km圏内へと進路をとった。細かく放射線量を計測しながら、南相馬市を南下し市内の中心部の一つである小高区の中心地域へと辿り着いた。
そこでの光景は、この先二度と見ることのない、いや決して見てはいけないものであった。
駅に隣接した典型的な地方の商店街である。平日の昼間であっても人の往来は決して少なくないであろう。津波は到達しておらず、町の姿そのものは原型をとどめたまま残っている。
しかしながら通常の町並みとは決定的に異なっていた異様な状況がそこにはあった。
人が誰一人としていないのである。いや生き物の存在すら街中では確認できなかった。中心部の交差点の信号すら点いておらず、幹線道路のセンターラインに立ち尽くしても、もちろん咎める者等誰もいない。
震災から2週間経っていたが、地震によって倒壊した一部家屋や門柱、塀などもそのままになっていた。
その異様な状況はSF映画等によって描かれる「廃墟」のシーンを遥かに凌駕していた。いや、身の毛もよだつようなこんな映像をかつて見た記憶がある。中性子爆弾による都市破壊の実験映像だ。
そんな映像体験等比べるに値すらしない、空虚のリアリティー。
街は完全に死滅していたのだ。原子力によって!

多くの惨禍をもたらした3.11東日本大震災。2ヶ月経った今なお、次々と新たな問題が明るみになってきている。津波や地震といった自然災害による被害はもとより、原子力発電所による災害は、震源から遠く離れた地域である、ここ東京や南関東圏にまでその被害を広げようとしている。
このような現状や、先に記した我々の被災地域現地での体験を踏まえ、明確になったことがある。
命すら軽んじる、既成のシステムに盲従した、融通の利かない縦割り行政の存在。
いざ事故が起こると、具体的な打開策が一切見出せず、被害状況に応じて逃げることしかできない、原子力発電所の存在。
今、我々が立ち向かっている問題は、決してこの大規模災害によって新たに発生したものではなく、かつてからこの国に存在していたものであるということだ!
我々は自らの生命を脅かす、これらの問題をこれまで克服しきれず、この震災によって、国の行方を左右しかねない大問題へと発展させてしまったのである。

かねてから懸念されてきた、これらの問題による人的被害。最早、我々の立場は、被害を「仮定」した反対運動を起こす存在ではないのである。実際に膨大な被害を被っている立場として、抗議し、一刻も早い解決へと道筋を開いていく行動こそが必要である。

以上の観点から、HRPは以下の2点を今後の行動指針とすることを表明する。


○1.既成の枠組みを突破した、実効性があり、なおかつ独創性に溢れた柔軟な支援行動をもって、硬直化した行政を突き動かそう!

震災直後は確かに現地自治体の行政機関自体も、被災当事者であり、そして国家機関についても想定を遥かに超えた大災害といった点において、初動対応については多少の不十分な点も仕方なく、我々も協力する中で乗り切っていこうといった心情であった。
だが、この期に及んでもなお、これまであった無駄や不十分な点を改めるどころか、認めようともしないその姿勢に従っているだけでは、この非常時を乗り切っていくことなど、到底できはしないのは明確である。我々は国や自治体のもとにある行政機関の「命よりもシステムありき」のこういった姿勢を徹底的に弾劾し、そのような偏狭な枠に囚われない、実効性があり、真に命の要求に応えられる支援を断固として展開していく。
しかしながら、闇雲に行政機関を敵視しこれと対峙するのではなく、情報交換等はむしろ積極的に行い、まずは行政枠にも支援提供を申し入れた後に、その枠で出来ることがあるのであれば、有効性を精査した上で協力するといった柔軟な部分も残しておかなければならない。
ただ、これまでの経緯を踏まえると、被災住民の於かれている立場からの現実的なニーズと、行政側の策定した救援指針は全くかみ合っていないのが常であった。我々はこのような「穴」を埋める、行政の補完部隊として行動するのではなく、こういった無意味な束縛を突破しゲリラ的に行動する中で、困窮者への実効的な支援の展開をもって、当事者の具体的な声を様々な手段によって広範に拡散し、硬直した行政機関を少しでも動かせるような気運を作ることを目的としたい。
今後の支援の具体的な内容として「与える支援」から「作り出す道筋をつける支援」へと徐々にシフトしていかなければならないと考える。復旧・復興へと具体的に踏み出すのには何が必要であるのか?これだけ広範囲にわたる地域を巻き込んだ災害であるが故に、これは被災当事者だけでなく、全ての大衆が共に取り組んでいかなければならない課題ではないだろうか。
我々は、DIYバンドのメンバーを中心とした支援部隊であるという立場性から、この点について、これまでの根拠のない盲従的な消費第一の社会形態から脱した、主体的にもの作りをしていく中で、生産者も消費者も共に生産物の価値を共有できるような、かつてどの農村漁村にもあったような社会的価値観の復権を提案したい。
 女性隊員を中心とした部隊KidsZineは子供達に主体的なもの作りの機会を与える中で、被災地と被災圏外の子供達を結びつけるといった非常に意義ある行動であり、今後の被災者自らが作り出す復興のシンボル的な礎となるべく、いい形で拡散していけるよう取り組んでいきたい。HRP本体の行動についても、自ら動き出した被災者のニーズを汲んだ物的、人的サポートに取り組む中で、行政機関に対する実効的な対応についてもサポートしていきたい。ただ、いずれの行動についても、決して独善的になることはなく、これまでの被災当事者の生活形態を踏まえた上での支援であることを常に心がけていくべきである。

○2.真の被災者支援の為にも、全ての原子力発電所は即時全廃せよ!

これまでいくつかの被災地域に赴き感じたことがある。それは宮城県の被災者と福島県の被災者の心情が大きく異なるという事である。家屋の消失等、地震や津波による被害状況は宮城県地域の方が深刻ではあるが、被災した人々の表情は福島の被災住民の方が概ね深刻である。
家屋の破損は一切無いにも関わらず、先が全く見えないまま延々と続く避難生活。いつまでこの状態が続くのかどころか、自宅に戻れるかどうかすらもわからない。福島沿岸地域の原発被災住民の抱える苦悩は、これまでどの国民も味わった事が無い、絶望に近い混沌としたものではないだろうか。こういった原発被災住民の支援については、最早我々民間部隊では対処しきれないのが現状である。帰宅に向けての取り組みをする訳にもいかない、かといって先の見えない避難生活を延々とさせる訳にもいかない。国は一刻も早く被災住民に対し、これからに向けた具体的道筋を指し示すべきである。破壊した福島第一原子力発電所は、早期収拾どころか、この先どうなるかすらわからない状態であるのは、最早誰の目にも明らかだ。現代の技術と科学力では解決の道筋をつける事すら出来ず、被災地域の今後についてもどうする事も出来ない現状を国ははっきりと認め、それを踏まえた上で早急に避難住民への補償や今後の生活対策を講じるべきである。
そして、いざ事故が起こってしまったら、逃げる事しか被害を免れるすべはないような、こんな恐ろしい技術を我々は直ちに放棄しなければならない!いくつもの街が廃墟となり、多くの動物が死に絶え、絶望の末に早くも自殺者まで出している。この先甚大な健康障害が大量発生するのも明白である。このような犠牲を払ってまで、我々は過剰な利便性を求め、経済の国際競争の中で一途に邁進し続けなければならないのだろうか?断じて否であると我々は断言する。
我々は選択権のない有償電力消費者として、事業者である全ての電力会社と、無謀なエネルギー政策を推し進めてきた政府に以下の通り断固として要求する。

・全ての原子力発電所の運転を直ちに止め、使用済み燃料の安全な処理に、迅速に着手せよ。
・これまでの無尽蔵な消費社会のあり方を国民全体で議論し、自然や人とのつながりを再び見直すなど、これまでの生活環境の矛盾を突破する新たな価値観を政府が主導し創出せよ。
・将来的な化石燃料の全面廃棄に向けて、これまでの原子力研究機関を新たなエネルギー研究機関へと早急に転化せよ。
・今後発生する健康被害について、通常環境下の統計と比較し、少しでも放射能との因果関係が認められれば、全面的に補償せよ。

ここまで、はっきりとした方針を打ち出さない限り、明日をも知れぬ避難生活を延々と続ける、原発被災住民に対し、今後の生活の道筋など指し示せないのではないだろうかと我々は考える。

我々はこのような主張を掲げる立場から、原子力発電所の廃絶に向けて、暫時停止等様々な立場の方々と議論し、時には行動を共にする中で、二度とこのような事態を起こす事のないよう、働きかけていきたい。ただし、原発の是非そのものを議論するような不毛なテーブルには一切関わらない。それこそ机上の空論である。再度確認するが、我々の置かれている立場は、起こりうる被害予想を前提としたものなどでは最早ないのである。起こしてしまった最悪の事態をどう乗り越えるかに立ち向かっているのであって、その元凶たる設備体系の維持を前提とする等、滅んでしまった街を目撃してしまった我々にとっては、到底受け入れられない。

上記2点の主要な方針をもって、これからもより困窮した被災地域に赴き、被災住民の於かれている実情に合った支援を展開していく所存である。また、そのような現地体験を踏まえ、一刻も早い原子力発電所の廃絶へと声を上げ続けていきたい。

これまでの我々の支援活動は、多くの皆様によるカンパ等の援助があってこそのものです。改めてお礼を申し上げます。これからも粘り強い継続的な活動が必要とされます。今後とも多くの皆様のご支援、ご協力をお願いいたします。

            2011.5.11 HUMAN RECOVERY PROJECT 穴水正彦

2011年5月13日金曜日

kids d.i.y. プロジェクト 4.29東京+5.2南三陸ワークショップ

「ものづくり」を通して、わたしたちの地元東京と被災地各地のこども達(&わかもの達&おとな達)が繋がれるネットワーク作りを目的に発足した「kids d.i.y.」プロジェクト。

わたしたちの支援の現場のひとつは地元東京でもあります。東京第1回目のワークショップは、4/29に東京・新宿のIrregular Rhythm Asylumにて開催され、本プロジェクトの支援に賛同いただいた5家族のこども6人と一緒に、被災地に届ける作品づくりに楽しくに励みました。最初は恥ずかしがっていたこどもたちも、スイッチが入った途端に創造性を発揮しました。




こどもの絵やメッセージと共に、親御さんのメッセージも載せた1冊のzineができあがりました。










東京ワークショップで出来上がったzineを持って、5/2に宮城県南三陸市志津川小学校の避難所にてワークショップを開催しました。
学校もそろそろ始まり、避難所の統廃合もあって、こどもの人数はそれほどではありませんでしたが、ひとたび声をかけると「うさぎを作りたい!」などと、数人のこどもが元気良く駆け寄ってきては絵を書いたりチョキチョキと切り絵を切り始めました。とにかく遊びたいというこどもの欲求がひしひしと伝わってきました。




途中で神戸からのピアニカ集団と合流して、癒しの生演奏の横で和やかに遊びはお昼ごはん時まで続きました。




このバナーも、こども達と一緒に作りました。

そして、こども達の作品を集めた志津川版の1冊のzineが完成しました。


南三陸市はわたしたちが訪れた5月初頭でも戦場のような壮絶な光景が広がっていました。それでも、こども達は流されてきたベッドをトランポリン代わりにしてピョンピョンと跳ね飛び、元気に遊んでいました。なんでも遊び道具にしてしまうこども達の創造性とたくましさを見た気がしました。

4/29東京ワークショップ、そして5/2南三陸市志津川小学校ワークショップにご理解、ご協力いただいたみなさまに、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました!また元気にお会いしましょう。

2011年5月10日火曜日

宮城県南三陸町5/1.2時点での様子について

南坂です。
5月1、2日にHRPとして南三陸町で活動した事についての簡単に纏めさせて頂きます。

今回の大まかな活動概要を最初に報告させて頂くとまず一つは前回同様に漫画家の山本夜羽音氏(ツイッターアカウント@johanne_DOXA)が中心として行っているおたぱっくという支援活動と連動し、集まったおもちゃ、様々な種類の本の提供。
そしてもう一つの活動として今回初めての試みとなる現地の子供達と共にkidszineを作るという活動です。
また今回も時間の経過に沿って報告させて頂こうと思います。

個人的に今回は行く道中にも復興を感じさせる部分があったのでそちらも簡単に記載させて頂きます。
まず我々は4月30日の深夜に中野区鷺宮から車3台にて出発致しました。
まず最初に仙台でメンバーが一人合流する為、仙台で高速を降りました。
ここでの行動としてまずの朝食及び昼食の確保を致しました。
そして仙台での合流が無事過ぎ、南三陸町へと向かう道中、石巻市にて給油を致しました。
この何気ない行動に関して何故わざわざ記載したのか。
それは震災十日後に我々が訪れた時点では考えられない事だったからです。
震災十日後の仙台市に関して空いているコンビニは見かける程度にしかなく探すのも一苦労の状況、石巻市においてはライフラインは全く無くお店どころか街の明かりも無い状態でした。
私事にはなりますが、時間も約二ヶ月経ち、復興してきている事を実感し、凄く嬉しくなりました。

そして今回の活動の拠点として当初の目的地にしていた南三陸町に到着し、今回被災地を始めて訪れるメンバーがいた事もあり、まずは少し車を止め街の様子を見ました。
被災地の様子に関しては以前からお伝えしてる通りメディアから察する何倍も深刻な状態です。
そして街の復興に際し、動き出している象徴と捉える事も出来るのだろうが私は海沿いの街にも関わらず、磯の香りでは無く色々な物を焼却してる匂いだけがした事に少し切なさを感じました。

そしてここからが活動としての本題なのですが、まず我々は南三陸町のボランティアの拠点となるベイサイドアリーナにて情報収集、物資の提供を行いました。
ボランティアセンターにて避難所の状況を聞き、今回向かう避難所に向けての情報収集。
そして前回来た時にこういった事をしていたのか定かでは無いが、ボランティアセンターが炊き出し情報含め「どこの避難所でいつ、こういう催しがある」と言ったイベントの取り纏めを行っていた。
ただ近々の予定では組み入れてもらう事は難しく、事前にお話をしておく必要がある為今回も我々は各避難所でゲリラ的に活動した。
実際にこのベイサイドアリーナでも物資の提供をゲリラ的に行った。
目に入る子供達全員に「本あげるよ!」と呼びかけ、車の傍でダンボールを広げ欲しい物だけ持って行って下さいというフリーバザースタイルでの提供です。
前回南三陸町に入った時から2週間振りに訪れたのですが、この時点で上手く言葉に出来ない変化を感じました。
ダンボールを広げるのに辺り、場所を確保する為に街の方が率先し自衛隊の方と交渉し、傍に軽トラックを止め、ダンボールを見やすい位置に広げる…以前は全てを僕らがやっていたのですが、今回は何を言うでも無く、避難者の方が自ら動いてくれました。
私は子供達の呼びかけで車から離れていた為あまりお話を出来なかったのですが、「(行政等が)自分達が欲しい物資を受け入れてくれない、だからこうやってあなた達みたいな人が来たら自分達で動いてるのよ!」との声を現地の方から聞いたとの報告も受けました。

そして少し話はそれますがここで共に南三陸市に入った愛知の家族がいたのですが、ベイサイドアリーナでボランティア登録をして活動をする事に決まったのでお別れした。
この家族は5月7日時点で伺ったお話ですが、GWを過ぎ格段に人の数が減っているとの事でした。
それと地元の人の声として、ボランティアの人も色々頑張ってくれてるのに私個人の小さなお願いを頼むのも申し訳無いと言っていたりしたとの事です。

そして私達は入谷小学校に向かいました。
校庭ではこの日からサッカークラブの練習が再開されたらしく、父兄の方が沢山いました。
この方達に避難所の受付はどこか尋ねると「ここだよ!」との返答、この時点で私は冗談で言っていると思い、避難所になっている体育館の中へ行ってみました。
ここの避難所を統括していらっしゃる方はその時は用事でいない模様、お話を聞くとここの避難所は行政等の組織を通さずに自分達で物資の受け入れ等をやっている模様でした。
先程校庭で話した父兄の方々の発言はあながち冗談では無かったようで校庭に戻りその方達に声を掛け、車の傍で段ボールを広げバザー形式で物資の提供しました。
ここで二人の方が声を掛けてきました。
一人は小学生の女の子、「私は元々この学校に通っていたけど遠くの施設に避難している。今日は寂しくなってここに遊びにきた。私が避難している所には同じ様に避難している子供が沢山いるからこの物資を是非持っていって欲しい。」と要約するとこうい
った内容でした。
もう一人声を掛けてきた女性は「私達の所にもある程度まとめて持ってきて欲しい、そうしたら私達がその周辺の避難所に配ったりするから」といった内容。
今まで避難所に行き、僕らから声を掛け避難所を紹介してもらう事はあったが今回のように避難者の方から要望を受けたのは珍しいケースでした。

そして次に向かったのが先程の小学校で女の子から要望があった宮城県大崎市にある仙庄館という旅館。
南三陸町からは約90km離れた所。
私達が着いた時はちょうど夕食の時間だったのだが、そこの避難所を統括してらっしゃる方がマイクを用いて呼び掛けをしてくれたり、父兄の方々が物資の積み降ろしを率先して手伝って頂けたりと非常に協力的でした。
こちらの旅館も避難者の方自身で役割を決め、避難所として運営している状況でした。
こちらの方で聞いたお話だと「行政は行政でやってもらわなければいけない事が山ほどある。避難者が行政に頼ってしまう事でそれが遅れてしまうと思う。出来る事は自分達でやる。それが早期復興に繋がると思う。」との事でした。
こちらの避難所では実際にこう語った方が仮説住宅の入居の話等を行政との間に入り、避難所を取り纏めている状況の様です。
そしてこちらの施設では私達の必要な物だけ提供し、余った物は持ち帰るといった物資提供のスタイルが気に入って頂けた事もあり、この日はここの施設で避難されてる方、旅館の皆様のご好意によりこちらで宿泊させて頂きました。
本当にその節はありがとうございました 。

そして翌日、子供達が登校するのを見送らせて頂き、大崎市仙庄館を後にし私達は南三陸町へと戻りました。
この日は朝10時からキッズジン部隊が志津川小学校にてアポを取っていたので志津川小学校へ向かいます。
そしてここで一時キッズジン部隊と物資提供部隊に別れ、行動しました。
私は物資提供部隊だった為、キッズジンに関しての報告はこの文面とは別でさせて頂きます。
物資提供部隊は歌津中学校にて活動しました。
この中学校でもやはり今までと同様物資としての受け入れはして頂けませんでしたが、入り口のロビーを貸して頂きバザー形式で提供しました。
ここではすぐ近くの歌津小学校で衣類のバザーを体育館を使用し、大規模に行っていましたので、そちらの入り口付近にいたボランティアの方に僕らのバザーの呼び掛けもして頂く様お願いしました。
そしてこちらでも地元の高校生が率先して最初から最後まで手伝ってくれて、助かりました。
ありがとうございます。
そしてこちらで対応して頂いていたボランティアの方が私達のバザーの反響ぶりを見て最終的に余ったら何箱か置いていってほしいと声を掛けられました。
個人的見解ですが、その方は私達の活動の様子を見て、本等の需要の多さを目の当たりにして驚いていた印象があります。

そしてこちらでの物資提供を終え、私達は志津川小学校に戻りキッズジン部隊と合流。
ここで「め組JAPAN」という団体がバスで志津川小学校に来ました。
石巻には以前から入っているボランティア団体でしたが、南三陸町で見かけたのは初めてでした。

そしてここから馬場中山生活センターor泊浜生活センターという避難所に行ったのですが、どちらだったか記憶が定かではありません…申し訳御座いません。
ここでも相変わらずと言った状況。
避難所としての受け入れはしてもらえず、バザー形式で提供するという状況でした。
ここでの物資提供を終え、先ほど行った歌津中学校に戻り、何箱かの物資を提供しました。
そして前日入谷小学校で物資を持ってきて欲しいと声を掛けて頂いた登米市登米公民館に向かいました。
この公民館で対応して頂いた行政の方は一日前からこの避難所に来ているとの事で状況をあまりわかっていない様子で物資の受け入れもどこかに確認をしたりとタジタジでした。
そんな状況の所に昨日私達に物資を持って来てと言って頂いた女性が現れました。
行政の方に「なんで受け入れ出来ないの?スペースはあるでしょ。あんたらが何も出来ないなら余っても私達が他の避難所に配るから受け入れるからね。」と言った様子でした。
そしてここでの物資の提供を終え、今回の活動は終了し、東京に戻りました。

非常に長くはなりましたが、大まかにまとめると行政の方等の公平な物資の提供といったスタイルに痺れを切らしたり様々な考えはありますが、ほとんどの避難所で避難者の方が自分達のより良い生活を確保する為に動いている、避難所を自分達で作り上げているという印象があります。
その為私達の車からダンボールを降ろし後は見ているだけでも大丈夫という状況でした。
数日前に訪れた時とは状況が変わっていて、私達自身も驚きました。
これも地域でのコミュニティーが強く、皆が力を合わせているからこそ出来る事であると思います。
これはメディアでは報じられない実態だと思います。
メディアで報じられる表面的な綺麗事で済まされない事は多々現地では起こっています。
この文章を読んで頂けた方には事実を見極めた上での行動をお願いしたいと思います。

文章にした為乱文で見辛い点も多々あるとは思いますが、取り急ぎ報告とさせていただきます。
もっと詳細を知りたい、わかりにくい部分があればこちらのコメント欄やツイッター(@na0kio416)等に連絡頂ければお話させて頂きますので宜しくお願い致します。

2011年5月1日日曜日

4月会計報告


今月は漫画家の山本夜羽音氏が主宰するおたぱっくQB(救援便)http://blog.livedoor.jp/otapackqb/ と連携し、その物資を仕分けサポート、配給することが主たる活動となった。朝日新聞に記事として扱われたことで、全国から予想を遙かに上回る規模の莫大な物資が「おたぱっく」に集まったため、今月は配給物資の購入は殆どしておらず、殆どは運営関係の出費となりました。
また、提供いただいた物資の中で、どうしても被災者から受け入れなれなかった書籍やビデオソフトなどは、勝手ながら売却処分させていただきました。換金した資金は、ニーズに合った物資購入に充てさせていただき、必ずや困窮した被災者の下へ届けることを強く約束いたします。

4月の収支内容の報告です。

収入(4/1~28のカンパ)1,339,729円

以下、カンパ協力・物資提供の協力をしてくださった皆さんです。ありがとうございます。
イベントや集会でカンパくださった多くの方にも、重ねて御礼申し上げます。
※口座入金の方は字数制限で名称が削れてしまってます。申し訳ございません。

ヨシナガナオミ,マツダ ユウコ,中家,大和田,佐藤千春,イナバケイスケ,ナガシマ コ,イイダカズミ,アサルト ケンタ,ヤマダユウジ,トヨダユメタロ,ノサカ ヨウコ,山本陽一郎,4/2西荻FLATライブカンパ,初台WALL カンパ箱,SCREW WITH IN,ハナイコウジ,フジタ マユミ,ヤナギサワ ユ,サトウヒロコ,ニシムラ ヒロキ,シミズ ノリコ,イチカワ シヨウコ,オオノ ヤスジ,ブックオフ買い取り,松本恵莉子,林哲夫,LIFE(ノリ),シブヤ リヨウ,コバヤシタカコ,ツジナミ リヨ,タカハシ ユキヒコ,ヤマグチ カノウ,ニシカワケンジ,earthdom,大柴よしこ,西宿野良犬彫師連,ナカイエ アツシ,ヨシダ トモフ,エイレン,ヨシイ ユミコ,ハシモト シユウ,園良太,鈴木,ミタチ アキノリ,ヨシダトモフミ,イワヤナギヨシコ,シスターシスター,アベシンイチ,4/10高円寺脱原発デモカンパ,ネモジュン,シノ,大勢の伊達直人(敬称略)

支出137,746円 (4月期+1,201,983円) 累計収支+1,136,785円
以下、支出内訳です。
3/27 ENEOS 軽油6,288円、3/25 EXPRESS 軽油6,800円、4/7ユア・パーキング300円、4/8 ユア・パーキング400円、4/8下井草倉庫契約金(オタパック)20,000円、4/9トヨタレンタカー荻窪(オタパック)22,807円、4/13カネヒロ井草店 ゴミ袋2,386円、4/15カネヒロ井草店 タンク、マット1,960円、4/15エイブルパーキング1,100円、4/18 燃料代6,298円、4/18高速代600円、4/18高速代8,600円、4/21ユアパーキング700円、4/3 OMATA ポリタンク4,300円、3/30カネヒロ 灯油ポンプ97円、4/8WonderGooいわき鹿島店 DSソフト5,160円、3/23 松屋東伏見 飲料水2,160円、3/23西友下井草店 食品5,437円、4/16燃料代4,402円、4/16燃料代6,547円、4/17リパーク300円、4/17リパーク1,400円、4/17リパーク300円、4/17リパーク1,400円、4/16燃料代6,699円、4/18燃料代3,886円、4/18エイブルパーキング1,400円、4/18コスモ石油 燃料代、借車洗車代11,949円、4/30 カネヒロ井草店 食料 容器2,800円
※n.a.m.所有の車両については部隊行動前に、燃料満タン状態で受け取り、行動終了後に燃料満タン返しで受け取るという形をとっています。

尚、n.a.m.と同業者である音響会社、株式会社舞夢サウンドプロジェクト(03-5983-1486)さんがトラックを一週間以上の長きに渡り、無償で提供してくださいました!多大な協力に感謝し、代表取締役の中村正次様を写真にて紹介させていただきます。従業員の田中大輔君にも大変お世話になりました。

5月以降は南相馬、いわき市北部といった原発被害に苦しむ地域に焦点を絞り、生活支援物資というより、復旧支援物資(調理設備、がれき撤去・泥ハケ用具など)を供給していきたいと考えております。
引き続きカンパの協力をなにとぞお願いいたします。

カンパの振込先:
城南信用金庫 高円寺支店 普通 327580 ヒューマンリカバリ-プロジエクト

*振込画面で、依頼人名前の入力の際に頭に「カンパ」と付けていただけると分かり易くて助かります。