2011年5月14日土曜日

5.11 HRP第一次声明

未曾有の惨禍をもたらしたあの震災から2ヶ月が経過した。

我々はこの間、5度の遠征部隊を組織し、石巻、南三陸、仙台、南相馬、いわき、楢葉町等に向かい、現地の被害状況をリアルタイムで伝えると共に、被災した住民に対して食料、生活必需品、おもちゃや本等の娯楽物資を配給することによってささやかながらサポートをしてきた。

これまで現地に赴いた隊員のレポートや写真等の報告によって明らかな通り、既成のメディアで伝えられる以上に、どの地域に於いても被害は甚大たるものである。もはやかってこの場に何があったのかすら想像することが困難な、筆舌に尽くしがたい有様であった。膨大な廃棄物と化してしまった家屋の残骸に混じり、不釣り合いなコントラストを生み出している衣料品や鍋といった、生々しい生活の痕跡。そう、確かに、そこにはつい最近まで人々の営みがあり、命が存在していたのだ。しかしながら、360度、辺り一面どこをみても散乱するする瓦礫のみといった殺伐とした光景と、腐敗しかかった海産物と下水の混ざったような臭気漂う廃墟の中では、それらの「痕跡」は命の営みを証明するには説得力に乏しいと言わざるを得ない・・・。

我々は、難を逃れ、何とか避難生活を続けている被災住民のもとへ一刻も早く物資を届けんと、各地域において避難所を渡り歩いてきた。
まだ津波の跡も生々しい、散乱した瓦礫に囲まれた施設で、救いの手を待ち、幼子を抱え避難生活を続ける親子。
1階部分が完全に破壊されながらも、かろうじて残った自宅2階に戻り、復旧を信じ、水もない生活を続ける家族。
流されてしまった我が家を見下ろす高台にある、通学先の学校で避難生活を送る生徒児童。
居住地域から遠く離れた温泉宿の避難所で、日常に戻れるかどうかの不安を抱えたまま、観光宿で避難生活を強いられている家族。
福島第一原発20km周辺ながらも、電気が復旧したということで帰宅してしまった家族。

人々は甚大な被害を被りながらも、かつてあった当たり前の日常を取り戻さんと、困窮しながらも、皆したたかに何とかそれぞれの暮らしを保っていた。

我々が最初に現地を訪れたのは震災後10日程たってからであるが、その時点で既にどこの受け入れ行政機関も「物資については既に在庫があり間に合っている」との説明であった。ならば、より困窮している在宅避難者を独自に探して、支援したいとの我々の申し出に対して、行政機関の回答は想像を絶するものであった。
「そのようなことはしないでもらいたい」
その根拠は「平等の原則に反する」というものであった。
まさにそういった説明を受けているさなか、週二回の配給日を待てずに、配給場所である社会福祉協議会に車で乗り付けてきた被災住民がやってきた。
つい最近、遠く離れた避難所から自宅避難に切り替えたため、配給のノウハウを把握しておらず、今日の夜に食べるものすらないとのことだった。
乗り付けた軽トラックは車外はおろか、中まで泥だらけだ。「おとうさん、ずいぶんと波にやられて汚れちゃったね。」
私からの問いかけに、初老の被災男性は「これは作業用の車だよ。いつあれ(原発)がドカンとくるかわがんねから、逃げるときの為にいい車は残してあんだ」
ハンドルを握る手すら、乾いた泥にまみれていた。
その姿からこんな窮状下にあっても、若いもんに無用な心配はかけまいと、精一杯気を使ってくれているのが、容易に想像できた。
「平等の原則」とやらはこんな姿のものですら、門前払いとしてしまうのか!
施設の外で、我々はカップ麺1ダースを男性に手渡した。
「これで近所のもんにも分けてやることができる」
さっきまで気を使って強がっていた男性は、我々に手を合わせた後、住居へと走り去っていった。

その時点で我々の腹は決まった。
今後は一切、行政機関に頼らず、実際の被災住民のニーズに合った支援を独自に展開していくという方針を明確に打ち出すこととなった。

その後、我々はより困窮した地域へ乗り込む為、避難指定地域である、福島第一原発20km圏内へと進路をとった。細かく放射線量を計測しながら、南相馬市を南下し市内の中心部の一つである小高区の中心地域へと辿り着いた。
そこでの光景は、この先二度と見ることのない、いや決して見てはいけないものであった。
駅に隣接した典型的な地方の商店街である。平日の昼間であっても人の往来は決して少なくないであろう。津波は到達しておらず、町の姿そのものは原型をとどめたまま残っている。
しかしながら通常の町並みとは決定的に異なっていた異様な状況がそこにはあった。
人が誰一人としていないのである。いや生き物の存在すら街中では確認できなかった。中心部の交差点の信号すら点いておらず、幹線道路のセンターラインに立ち尽くしても、もちろん咎める者等誰もいない。
震災から2週間経っていたが、地震によって倒壊した一部家屋や門柱、塀などもそのままになっていた。
その異様な状況はSF映画等によって描かれる「廃墟」のシーンを遥かに凌駕していた。いや、身の毛もよだつようなこんな映像をかつて見た記憶がある。中性子爆弾による都市破壊の実験映像だ。
そんな映像体験等比べるに値すらしない、空虚のリアリティー。
街は完全に死滅していたのだ。原子力によって!

多くの惨禍をもたらした3.11東日本大震災。2ヶ月経った今なお、次々と新たな問題が明るみになってきている。津波や地震といった自然災害による被害はもとより、原子力発電所による災害は、震源から遠く離れた地域である、ここ東京や南関東圏にまでその被害を広げようとしている。
このような現状や、先に記した我々の被災地域現地での体験を踏まえ、明確になったことがある。
命すら軽んじる、既成のシステムに盲従した、融通の利かない縦割り行政の存在。
いざ事故が起こると、具体的な打開策が一切見出せず、被害状況に応じて逃げることしかできない、原子力発電所の存在。
今、我々が立ち向かっている問題は、決してこの大規模災害によって新たに発生したものではなく、かつてからこの国に存在していたものであるということだ!
我々は自らの生命を脅かす、これらの問題をこれまで克服しきれず、この震災によって、国の行方を左右しかねない大問題へと発展させてしまったのである。

かねてから懸念されてきた、これらの問題による人的被害。最早、我々の立場は、被害を「仮定」した反対運動を起こす存在ではないのである。実際に膨大な被害を被っている立場として、抗議し、一刻も早い解決へと道筋を開いていく行動こそが必要である。

以上の観点から、HRPは以下の2点を今後の行動指針とすることを表明する。


○1.既成の枠組みを突破した、実効性があり、なおかつ独創性に溢れた柔軟な支援行動をもって、硬直化した行政を突き動かそう!

震災直後は確かに現地自治体の行政機関自体も、被災当事者であり、そして国家機関についても想定を遥かに超えた大災害といった点において、初動対応については多少の不十分な点も仕方なく、我々も協力する中で乗り切っていこうといった心情であった。
だが、この期に及んでもなお、これまであった無駄や不十分な点を改めるどころか、認めようともしないその姿勢に従っているだけでは、この非常時を乗り切っていくことなど、到底できはしないのは明確である。我々は国や自治体のもとにある行政機関の「命よりもシステムありき」のこういった姿勢を徹底的に弾劾し、そのような偏狭な枠に囚われない、実効性があり、真に命の要求に応えられる支援を断固として展開していく。
しかしながら、闇雲に行政機関を敵視しこれと対峙するのではなく、情報交換等はむしろ積極的に行い、まずは行政枠にも支援提供を申し入れた後に、その枠で出来ることがあるのであれば、有効性を精査した上で協力するといった柔軟な部分も残しておかなければならない。
ただ、これまでの経緯を踏まえると、被災住民の於かれている立場からの現実的なニーズと、行政側の策定した救援指針は全くかみ合っていないのが常であった。我々はこのような「穴」を埋める、行政の補完部隊として行動するのではなく、こういった無意味な束縛を突破しゲリラ的に行動する中で、困窮者への実効的な支援の展開をもって、当事者の具体的な声を様々な手段によって広範に拡散し、硬直した行政機関を少しでも動かせるような気運を作ることを目的としたい。
今後の支援の具体的な内容として「与える支援」から「作り出す道筋をつける支援」へと徐々にシフトしていかなければならないと考える。復旧・復興へと具体的に踏み出すのには何が必要であるのか?これだけ広範囲にわたる地域を巻き込んだ災害であるが故に、これは被災当事者だけでなく、全ての大衆が共に取り組んでいかなければならない課題ではないだろうか。
我々は、DIYバンドのメンバーを中心とした支援部隊であるという立場性から、この点について、これまでの根拠のない盲従的な消費第一の社会形態から脱した、主体的にもの作りをしていく中で、生産者も消費者も共に生産物の価値を共有できるような、かつてどの農村漁村にもあったような社会的価値観の復権を提案したい。
 女性隊員を中心とした部隊KidsZineは子供達に主体的なもの作りの機会を与える中で、被災地と被災圏外の子供達を結びつけるといった非常に意義ある行動であり、今後の被災者自らが作り出す復興のシンボル的な礎となるべく、いい形で拡散していけるよう取り組んでいきたい。HRP本体の行動についても、自ら動き出した被災者のニーズを汲んだ物的、人的サポートに取り組む中で、行政機関に対する実効的な対応についてもサポートしていきたい。ただ、いずれの行動についても、決して独善的になることはなく、これまでの被災当事者の生活形態を踏まえた上での支援であることを常に心がけていくべきである。

○2.真の被災者支援の為にも、全ての原子力発電所は即時全廃せよ!

これまでいくつかの被災地域に赴き感じたことがある。それは宮城県の被災者と福島県の被災者の心情が大きく異なるという事である。家屋の消失等、地震や津波による被害状況は宮城県地域の方が深刻ではあるが、被災した人々の表情は福島の被災住民の方が概ね深刻である。
家屋の破損は一切無いにも関わらず、先が全く見えないまま延々と続く避難生活。いつまでこの状態が続くのかどころか、自宅に戻れるかどうかすらもわからない。福島沿岸地域の原発被災住民の抱える苦悩は、これまでどの国民も味わった事が無い、絶望に近い混沌としたものではないだろうか。こういった原発被災住民の支援については、最早我々民間部隊では対処しきれないのが現状である。帰宅に向けての取り組みをする訳にもいかない、かといって先の見えない避難生活を延々とさせる訳にもいかない。国は一刻も早く被災住民に対し、これからに向けた具体的道筋を指し示すべきである。破壊した福島第一原子力発電所は、早期収拾どころか、この先どうなるかすらわからない状態であるのは、最早誰の目にも明らかだ。現代の技術と科学力では解決の道筋をつける事すら出来ず、被災地域の今後についてもどうする事も出来ない現状を国ははっきりと認め、それを踏まえた上で早急に避難住民への補償や今後の生活対策を講じるべきである。
そして、いざ事故が起こってしまったら、逃げる事しか被害を免れるすべはないような、こんな恐ろしい技術を我々は直ちに放棄しなければならない!いくつもの街が廃墟となり、多くの動物が死に絶え、絶望の末に早くも自殺者まで出している。この先甚大な健康障害が大量発生するのも明白である。このような犠牲を払ってまで、我々は過剰な利便性を求め、経済の国際競争の中で一途に邁進し続けなければならないのだろうか?断じて否であると我々は断言する。
我々は選択権のない有償電力消費者として、事業者である全ての電力会社と、無謀なエネルギー政策を推し進めてきた政府に以下の通り断固として要求する。

・全ての原子力発電所の運転を直ちに止め、使用済み燃料の安全な処理に、迅速に着手せよ。
・これまでの無尽蔵な消費社会のあり方を国民全体で議論し、自然や人とのつながりを再び見直すなど、これまでの生活環境の矛盾を突破する新たな価値観を政府が主導し創出せよ。
・将来的な化石燃料の全面廃棄に向けて、これまでの原子力研究機関を新たなエネルギー研究機関へと早急に転化せよ。
・今後発生する健康被害について、通常環境下の統計と比較し、少しでも放射能との因果関係が認められれば、全面的に補償せよ。

ここまで、はっきりとした方針を打ち出さない限り、明日をも知れぬ避難生活を延々と続ける、原発被災住民に対し、今後の生活の道筋など指し示せないのではないだろうかと我々は考える。

我々はこのような主張を掲げる立場から、原子力発電所の廃絶に向けて、暫時停止等様々な立場の方々と議論し、時には行動を共にする中で、二度とこのような事態を起こす事のないよう、働きかけていきたい。ただし、原発の是非そのものを議論するような不毛なテーブルには一切関わらない。それこそ机上の空論である。再度確認するが、我々の置かれている立場は、起こりうる被害予想を前提としたものなどでは最早ないのである。起こしてしまった最悪の事態をどう乗り越えるかに立ち向かっているのであって、その元凶たる設備体系の維持を前提とする等、滅んでしまった街を目撃してしまった我々にとっては、到底受け入れられない。

上記2点の主要な方針をもって、これからもより困窮した被災地域に赴き、被災住民の於かれている実情に合った支援を展開していく所存である。また、そのような現地体験を踏まえ、一刻も早い原子力発電所の廃絶へと声を上げ続けていきたい。

これまでの我々の支援活動は、多くの皆様によるカンパ等の援助があってこそのものです。改めてお礼を申し上げます。これからも粘り強い継続的な活動が必要とされます。今後とも多くの皆様のご支援、ご協力をお願いいたします。

            2011.5.11 HUMAN RECOVERY PROJECT 穴水正彦

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